最近、ある国会議員が国会で「自衛隊に行く子は貧しい家庭の子である」と発言し、大きな批判を浴びました。その記事や世間の反応を見ながら、ふと昔のことを思い出しました。
わたしはこれまで父の仕事を「公務員」と書いてきましたが、実は特別国家公務員である自衛官でした。
父はいわゆる幹部自衛官で、東京の防衛庁と地方の駐屯地を数年ごとに転勤する仕事をしていました。そのため、わたしも子どもの頃から2年おきくらいに引っ越しを繰り返していました。幹部自衛官の子どもたちは、みんな同じような生活だったと思います。
地方の駐屯地では官舎に住み、クラスの半分くらいが自衛官の子どもということも珍しくなく、ごく普通に生活していました。
ところが東京へ戻ると、そうはいきませんでした。 母はわたしに「お父さんの仕事は会社員と言いなさい」と話していました。
幼かったわたしには、なぜ自衛官と言ってはいけないのか分かりません。ただ、東京にいる間はどこか窮屈な気持ちを抱えていました。
その理由がはっきり分かったのは、中学生のときです。
北海道の中学校から東京の中学校へ転校してきたある日の社会科の授業で、先生が「自衛隊は合憲か違憲か」をテーマに、生徒全員に手を挙げさせました。そして、それぞれの理由を発表し合う討論が始まったのです。
合憲に手を挙げたのは、わたしと男子生徒2人のわずか3人だけ。女子は、わたし以外全員が違憲に手を挙げました。仲の良かった友だちも、みんな違憲でした。
わたしは大きなショックを受けました。 「父の仕事は、こんなにも否定されているのだ。」 そう感じたのです。
社会科の先生は、わたしの父が防衛庁勤務であることを知っていました。それでも、この授業を行ったのです。当時のわたしには、それがわざとのように思えました。
わたしは、そのことを親に言えませんでした。もし話せば、学校へ抗議に行ったかもしれません。でも当時は、日教組の影響が強かった時代でもありました。
その後、新しく赴任した校長先生が日教組側の先生方と対立し、その社会科の先生は担任を外れることになりました。
その出来事を通して、子どもの頃に母が「会社員と言いなさい」と言っていた理由を、ようやく理解したのです。
自衛隊についてさまざまな考え方があるのは当然だと思います。 けれど、その家族や子どもたちにまで嫌な思いをさせることは、あってはならないことではないでしょうか。
そんな経験もあって、わたしは長い間、友だちにも父の仕事を話せませんでした。 「お父さんは何をしているの?」 そう聞かれるたびに、「会社員」と答えていました。
あるとき、北海道出身の友だちが自衛隊の話題になった際に、「自衛隊なんて雪まつりのためにあるんでしょ」と何気なく言いました。
もちろん、彼女はわたしの父が自衛官だとは知りません。 それでも、その言葉は胸に刺さりました。
大人になる頃には、「結婚するなら絶対に自衛官以外の人」と思うようになっていました。 自分の子どもには、わたしと同じ思いをさせたくなかったからです。 父親の仕事を堂々と言えないことが、どれほど悲しいことかを知っていたからです。
その後、80年代半ばに民間企業に勤めていたジミ夫と結婚し、社宅生活を経て茨城に家を買いました。 その頃になると、ようやく父が自衛官だったことを人に話せるようになりました。
わたしは父をとても尊敬していました。けれど、父の仕事に対して子どもの頃に感じた引け目だけは、長い間心の奥に残っていました。 「父は世の中から認められていない仕事をしている。」 そんな思いが、わたしの心の傷になっていたのです。
父が叙勲を受けたとき、わたしはようやく、父が長年にわたって果たしてきた職責が認められたのだと感じ、心から誇らしく思いました。
そして父が76歳で亡くなったときには、大勢の元部下の方々が葬儀に駆けつけてくださいました。
中には涙を流しながら、「お父さんには本当にお世話になりました」と声をかけてくださる方もいました。 その姿を見て、父はこんなにも多くの人に慕われていたのだと知り、とても嬉しかったことを今でも覚えています。
父は、防衛庁が防衛省へ昇格したとき、本当に喜んでいました。 そして、その3か月後に亡くなりました。
自衛隊への視線がとても厳しかった時代を生きた父が、今の日本を見たら何を思うでしょう。 ようやく、自分たちの仕事が社会に理解されるようになったと感じるでしょうか。
もちろん、自衛隊に対してさまざまな考え方があることは理解しています。
それでも今なお、自衛隊そのものを否定するような言葉に触れると、わたしはやはり寂しい気持ちになります。
日本中の自衛隊員のご家族や、その子どもたちが、わたしと同じような思いをすることのない社会であってほしい。 そんなことを心から願っています。

使い回し画像ですが、若き日の父。1962年、アメリカのオクラホマ州フォート・シル陸軍基地にある「アメリカ陸軍砲兵学校」に留学していました。当時わたしは2歳で、母と、秋田県にある母の実家に身を寄せていました。

父が亡くなるまで大切にしていた、卒業時の「TOP STUDENT(主席)」の盾です。
父の留学先「アメリカ陸軍砲兵学校」についてと、盾の持つ意味を教えてくれたのは、実は父ではなく、ご近所の元米軍退役軍人の方でした。この盾はただの「飾りもの」して、長年実家に置いてあったのです。
ある時その方とお話ししていて、父の遺品である「謎の盾」の話になりました。是非見せてほしいと言われ、お見せしたところ、大変驚かれて「自分もこの学校に通った」とおっしゃいました。そして、これが、卒業時に主席の学生に与えられる盾だということを教えてくれたのでした。
その方も、もう亡くなりましたが、父は、盾の由来を母にもわたしたちにも言わず、留学時代の努力の証として大切にしていたのだと思います。
病気がちでしたが、家族思いで優しくて、誰がなんと言おうとわたしにとって自慢の父でした。
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